
アンドレ・ジッド(André Gide)
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この人は?
アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 - 1951年2月19日)は、フランスの小説家。アンドレ・ジイド(昭和時代はこの表記が多かった)、アンドレ・ジードとも表記される。 文壇誌『新フランス評論(NRF)』創刊者の一人。『日記』は半世紀以上書かれ、フランス日記文学を代表する作品である。 人間の自由とキリスト教的モラルの対立を主題にした小説を多く書いた。幼時に受けた厳格な宗教の教育と性的な欲求の矛盾が、その根底にある。また文芸批評家としても活躍。評論に『ドストエフスキー』、小説に『背徳者』『狭き門』『田園交響楽』などがある。 生涯と作品 生い立ち 1869年パリ6区メデシス街に生まれる。父ジャン・ポール・ギヨーム・ジッドは南仏ユゼス出身でプロテスタントの家系、パリ大学法学部教授をつとめた。母ジュリエットは北仏ルーアン出身の裕福な織物業者ロンドー氏の娘。叔父は経済学者のシャルル・ジッド。少年期はたびたびユゼス、ルーアン、ラ・ロックの別荘などを訪れた。6歳頃からピアノを習い始め、生涯の趣味とした。8歳の時にアルザス学院に入学。品行不良(自慰の習慣)のため一次停学、病弱のために休校して親戚の家などで保養し、10歳の時にアルザス学院に復学。11歳の時に父が亡くなり、母、伯母、家庭教師によって育てられる。またアルザス学院を退学し、療養のために各地の保養地を転々としたのちにパリに戻る。この頃アンリ・フレデリック・アミエル、ゴーティエ、ハイネを愛読する。14歳の時にアルザス学院再入学するが3カ月で退学。17歳の時にアルザス学院の修辞クラスに入り、ピエール・ルイスと知り合い文学的友情で結ばれる。 1888年にアンリ4世校の哲学学級に転校。レオン・ブルムと知り合い、『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌の編集を手伝う。バカロレアに合格するが、文学に専念するために大学進学はやめる。1890年にルイスを通じてポール・ヴァレリーと知り合い、母方の従姉マドレーヌ・エマニュアルへの思いを主題にした『アンドレ・ワルテルの手記』を執筆し、翌年自費出版。やがてステファヌ・マラルメの「火曜会」に出入りするようになる。『アンドレ・ワルテルの手記』はマラルメから絶賛され、その後も象徴主義の影響が色濃い作品を発表する。またオスカー・ワイルドとも知り合う。 北アフリカ 1892年に北仏のナンシーで兵役に就くが肺結核でまもなく除隊。 1893年、親友のポール・アルベール・ローランスと北アフリカ(アルジェリア、チュニジア)を旅行。以後たびたび同地へ赴き、ワイルドとアルフレッド・ダグラス卿にも邂逅、娼婦との交流や同性愛を経験する。この一連の体験がキリスト教的な束縛からの脱却による文学者としての転機となった。