
周恩来(Zhou Enlai)
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この人は?
周 恩来(しゅう おんらい、ジョウ・エンライ、簡体字: 周恩来; 繁体字: 周恩來; 拼音: Zhōu Ēnlái; ウェード式: Chou1 Ên1-lai2、1898年3月5日 - 1976年1月8日)は、中国の政治家・革命家。字は翔宇。中華人民共和国の初代総理(首相)で、建国された1949年10月1日以来死去するまで一貫して在任した。毛沢東共産党主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。 生涯 生い立ち 1898年3月5日(光緒24年2月13日)、江蘇省淮安府山陽県で生まれる。本貫は浙江省紹興府会稽県。天津の南開中学校で学んだ。父は周劭綱(もとの名は貽能)。嗣父で叔父は周貽淦。弟は周恩溥・周恩寿。妻は鄧穎超。養子女は孫維世(養女、文化大革命で迫害死)・李鵬(養子、後に国務院総理)である。 日本留学とその後 南開中学卒業後の1917年に日本に留学した。この時、官費留学生として日本に居た韓大個夫妻は、周恩来が無一文で日本にやってきたと聞き、ほかの4人の官費留学生と相談し、各人が毎月10元ほど節約することで周の生活を支援した。周は生活の目途がつくと勉学の準備をすすめ、松本亀次郎が設立した東京・神田の東亜高等予備学校(日華同人共立・東亜高等予備学校)の本科に入学し、同校で日本語を学びながら、東京高等師範学校への受験に備えた。 当時の中国は日本の文部省と協定を結んでおり、中国人留学生のために第一高等学校、東京高等学校、東京高等師範学校、東京高等商業学校、山口高等商業学校の5校の大学予科に合格したものは、中国政府(各省)が官費を支給する制度を設けられていた。そのため周恩来も官費留学の資格を得るために日本に留学し、第一高等学校と東京高等師範学校の受験をするが、日本語の習得不足によりに不合格となる。また、早稲田大学や日本大学の聴講生になったりしていた。 そのほか、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現在の政治経済学部)に通学した。 1917年の東京は、中国の留学生が落ち着いて勉強できる環境ではなかったが、1915年の日本の「対華21か条要求」の提出を機に日中関係は冷え込み、日本に身を置く中国人留学生たちの間では、日本の侵略的意図が露呈するにつれて排日・救国の機運が急速に高まっていたためである。留学生の多くが敵国に留まっていられないと感じ、学業を途中で切り上げて帰国し、日本に留まったものの多くは、政治小団体を組織したが、その中の比較的大きなものに「新中国協会」があった。周恩来はこうした中で、高師予科の受験の意力を削がれ新中国協会に参加した。